Camelopardalis (2006)

FRP、アクリル絵の具、映像プロジェクション
W200 × H600 × D100 (cm)

in*tension vol.3 −不可視−」東京芸術大学取手校地メディア教育棟ギャラリー


Photo by JunSAMBOMMATSU

 すべては夢かも知れない。そう考え始めるとキリがなくなる。
 夢か現か、リアルかバーチャルか、目に見えるものがどれほど/どうやって真実だと思えるのか、「そもそも真実って何だ」、などと考えは逡巡してしまう。生理学的には、夢も現も脳の中で起きている認識のプロセスに違いがないのだから、その区別や差異など、あってないようなものなのだ。それでもその差異を見つけ、より強く信頼できる尺度を手にしたい、と思ってしまう。私にとって、あるいは人類にとっての「確かさ」という感覚は一体何なのか。そんな衝動からこの作品の構想は始まった。

 キリンをモチーフとした本作は、FRPを用いた、高さ6m近い立体作品である。3mを超える高さに位置するその首と頭部には、写実的な形態でありながら、非存在を示す、つや消しの黒い表面を与えた。一方3mより下は、一旦肉体のフォルムを形作ったのちに、上から布をかぶせた表面を残して取り去った、いわば抜け殻の存在である。表面にはキリンの模様の映像を投影しているため、日没前と後で作品の様相は大きく変化する。昼間、くっきりと際立っていた頭部は闇に溶け、半透明の皮膜のフォルムをもった胴体部分には、内部に実体が存在するかのように、映像が浮かび上がるよう制作した。

 「すべては夢かも知れない」その問いかけを実現するために、何故キリンでなくてはならなかったのか。リサーチの段

 

階で改めて実物のキリンを目の当たりにしたとき、私は「確かに存在しているのに、その存在をうまく感じ取れない」という不可思議さを覚えた。キリンは、ゾウやパンダなどと同じく、ぬいぐるみや絵本の中で、馴染み深い動物である。そのために却って、実際に見ると多少の違和感を抱くものであろう。しかし、私がキリンから受けた違和感は、ゾウやパンダで感じるそれとは、明らかに異質なものであった。そして、キリンは私にとって動かしがたいモチーフとなった。

 「形而上的領域と形而下的領域は、地上三メートルで上下に区分されると判断されている。(中略)きりんを、一部で半形而上的哺乳類に分類しているのは、そのためである」という説がある*。私が覚えた違和感は、この説によるものであろうか。そうであるならば、存在と非存在、リアルとバーチャル双方を、生きながら体現するキリンに、私は惹かれたのだ。「目に見えて肌で感じられるもの」、「目に見えて肌で感じられないもの」、「目に見えなくて肌で感じられるもの」。これらの関係は決して一元的ではない。しかし、肌で感じられているものすらも、同じく自明なものではないのではないか。存在と非存在の差異が曖昧であることを提示し、別の尺度で世界を眺めるきっかけを喚起したい。

* 「けものづくし 真説・動物学大系」別役実 平凡社ライブラリー1993

 

 

Photo by Jun SAMBOMMATSU

 

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